vacilando’s diary

6つの原石についてとか、いろいろ

SixTONES"マスカラ"発売に寄せて(主にフィギュア)

おはようございます。

プロモ期間の怒涛の供給には慣れないまま。

8月11日を経て、とうとうマスカラ発売後の世界線へと来られた訳です。
毎度のことではありますが、発売までに公開する部分と隠している部分の分け方が本当に上手いですよね………

ひとまず、PLAYLISTのパフォーマンスも含め、フィギュアについては語っておきたいのです。今この時に、SixTONESを好きでいたという備忘録として。


まずはCDで明らかになった部分の歌詞↓

いつまでも後ろ向きのまま
ライトが影を作ってる
未だその3歩前で待ってる
溶けてゆく夜に落ちたままで


汚れていくだけの街でずっと僕ら暮らしている
正しさの周りで頭を抱えている

歌詞の解釈はあくまで私の深読みです

不安だとか焦りだとかが混ざった漠然とした恐怖がずっと付きまとっていて、
呑まれそうなギリギリの淵に立っている描写だとして、情景として浮かぶのはこう。

目映いスポットライトを浴びる主役、その周りで踊る自分を通り越して、観客の視線は主役へ。

バックについていた時に、主役より目立って俺を見ろと思いながら踊っていた、というインタビューも読んだなぁと思いながら、
観客はこちらを向いているのに自分を見ているわけではない、というのはどういう感覚なのかと考えてしまうんですよね。

そこでくる、『正しさの周りで~』という歌詞、
本当にデビュー後の楽曲であることに感謝ですよ。Jr.の推しに歌われたら膝から崩れ落ちます。

"正しさ"は所謂、"王道"なのかなぁと。
決して王道のキラキラ王子様なアイドルではなかったから。
らしさとして、邪道と言われるものを進んだけど。
それでも、求められたのは王道だったから。

そして今、自分達なりの"正しさ"を見つけて
「正しくあればいい」と歌えるのなら、それがすべて。

MGにてくじらさんがSixTONESのこれまでを知った上で作ってくださったという内容のインタビューがありましたね。
どこまで詳しく調べてくださったのかは分からないけど、かなり細やかに拾ってくださっているのではないかなと思います。

ただ、SixTONESのことだなと思う反面、
普遍的な"アイドル"であれば重なることでもあり、
見方を変えれば、自分の立ち位置に悩む人には刺さるのかな、と。

前回のブログでも述べたけど、
聞く人の知識量で受け取り方が変わる曲ですね。
(もちろん多い少ないではなく、アイドルに対してのスタンスの話)


そして、8月11日のPLAYLIST-SixTONES YouTube Limited performance-で公開されたパフォーマンス映像、
にこやかに歌い踊る姿を見て泣きました。
(楽しそうに歌い踊る自担が愛らしくて狂うかと思いました)

SixTONES – フィギュア [PLAYLIST - SixTONES YouTube Limited Performance - Day.2]
www.youtube.com


特に、前回のブログでも語った一番のしんどいポイントである『代替不可であれよ』のところ。
PLAYLISTでカメラに抜かれている髙地君、少年倶楽部でのパフォーマンスで抜かれていた慎太郎、どちらもにこやかに歌っていた。

音源と歌詞カードだけで聞いていた時は「そうでありたいという願い、そうであって欲しいという祈り」という認識が強く、
軽やかな曲調も相まって切なさを感じましたが、あの歌い方を見ると必ずしもそうではなかった。
『あれよ』は同じような境遇の聞き手に向けてのアドバイス的ニュアンスとして「そういうスタンスでいけよ」という風にも取れるのだな。

フィギュアはエールソングだと改めて認識しました。

無責任な後押しはなくて、今の彼ら自身の姿を通して伝えられるエール。
責任感が強くて、常にファンに寄り添い、常に高みを目指す彼ららしい、強く優しいエールでした。


代替不可であれよ、SixTONES